tsudanatsuki.com
明日の社会と自分をちょっとだけ良くするブログ
ブログ

【呟き】30歳になりました!29年間の振り返りと新たな挑戦についてぶつぶつと。

 

本日で30歳の仲間入りを果たした。何をするわけでもなくiPhoneの時計の針をじっと眺めて迎えた30歳。29歳最後の2時間は近くのドンキホーテで見事に財布を落として、肉のハナマサのレジでヒーヒー言っていたのだけど、10分後心優しい日本の神様の存在に涙ぐむ最後の20代。恐らくこのタイプの神様は私の住んでいたルワンダにはいない。

ここ最近は30歳を迎えるのにも関わらず、結婚もしていない自分がまるで魔法使いになるのではないか、ぐらいの勢いでソワソワして心が落ち着かなかった。20代と30代のマッチ数は全然変わってくるよ、とマッチングアプリの申し子が言っていたので、焦ってインストールしたりした。先に30歳を迎えた友人が、焦っていた私に「何にも変わらへんよ、意外と。焦らん方がいい」とジャストなアドバイスをくれたので、好きでもない男の子とのお誕生日デートは回避できたし、性に合わないアプリもアンインストールできた。ありがとう、友人。

 

 

母が30歳の頃は、もうすでに姉と兄が生まれていたのかと思うと母の偉大さに気づくし、女性の社会進出はこんなにも選択肢を狭めているのかと半分怒りが込み上げる。自分自身の課題をそっちのけにして周りを見渡すと、地元の友人も同級生もみんな結婚して、子どもを授かっていて、そんな環境の中でがむしゃらに夢に向かって突っ走る自分と、「30までにはなんとか・・・」という僅かな願いが入り混ざって混乱する29歳の梅雨。30歳になった今、少しベタっとしたぬるい安堵感を感じている。大丈夫。魔法使いにもなっていないし、「30までには、の呪い」もようやく解け、梅雨もそろそろ終わるようだ。

 

 

若い時は30歳にはもっとかっこいい何者かになっているのでは、と思っていたりしたのだが、今現在何者にもなっていないし、意外と何も変わらない30歳。
もう今後は機会がなさそうなので、これまでの29年間を振り返ることにする。

 

 

「世界を変えたいんです!」目を見開いて何度も言い放っていた頃。面接官は私ではなく何度も書類を見つめる。まためんどくさい奴がきたと思っていたに違いない。大学3年の冬は血眼になって就職活動するも、その時ゆうに50社は落ちていた。大学の専攻は社会福祉。強みはやる気と根気、サークルはボランティアをしていました!と熱血体育会系のように面接を受け、友人たちが続々と内定をもらう中、お祈りメールを目にする度、「人としてあなたはの存在価値はありません」という烙印を押されているのような恐怖を何度も感じた。
そもそも、自分の専攻の同級生は、病院や役所、施設といったところに就職するため、就活はせず、国家試験勉強に集中する。「福祉の仕事では社会を変えられないのでは」と自分の適性さえ知らない私は、広告の仕事や出版社の仕事など、影響力を持つであろう仕事にいくつも応募した。ようやく内定をもらったのは、全く関連のない不動産だった。

 

 

こんな就職先もあるよ。結局もらった内定を蹴り、就職先が決まらないまま、自分が何者かも分からないまま、年が終わる頃に同じコースの子が教えてくれた採用情報。福祉専門職で、地元のお堅いところ。とりあえず受けてみるか、と挑戦したところ、就活で培った暑苦しいスピーチとグループワークはやっとここで活かされ、約50倍の試験を奇跡的に合格した。両親はとても喜んでくれた。しかし、就職してからも組織の一人ではあるけれど、自分が何者かはずっと分からないままだった。

 

 

 

私には少し歳の離れた姉と兄がいて、私はいじめられっ子担当だった。ご近所でもカリスマ的な存在であった彼らはローラースケート隊を結成し、親たちにお披露目会なんかもしていた。私は一人三輪車で一生懸命よちよち追いかけていた。津田兄弟と言ったら、マラソン大会で簡単に優勝を取ってくるし、各運動イベントやスポーツ大会などで大活躍と有名だった。ただし。一番下を除く。自分は体が人一番小さく、かけっこでも私の後ろを走る人は誰もいなかった。後々、中高で30センチ以上身長が伸び、自分も津田家のDNAを受け継いでいたんだとようやく気づいた時には、姉も兄も部活だ高校だ県外だと言って家からいなくなっていた。いつも輝いている彼らのようになりたかったし、もっと話したかった。そして、自分も同じように褒められたかったのが本音。大人になって、二人とも心から私を可愛がってくれていたことに気付いた。

 

父は口数が異常に少ないが、たまに驚くようなギャグをかましてくれるユーモアのある人。基本的に何も干渉しないが、困った時は必ず手を差し伸べてくれる芯の強い人で、これは本人には秘密だが、実は密かに尊敬している。母は逆に過干渉であるが、宇宙よりも愛情が深く、子どものようなピュアな心を持っている。近すぎると暑苦しいけど、離れると母の優しさに甘えたくなるからこれは危険な存在。

 

 

 

反抗期真っ盛りの高校生の頃。最近の様子が明らかにおかしい父と母。二人でこそこそ遠出はするし、お仏壇には見知らぬよく分からないお供物。

「なんしちょっと最近?(宮崎弁で何しているの?の意味)」

勇気を出して尋ねると、母は思い口を開けた。

「もう一人のなっちゃんがね、なっちゃんに取り憑いてるらしいとよ」

 

 

 

話を聞き終わった後、私の心は空っぽになったのを覚えている。
何も考えられないのに、暑さのせいかTシャツの袖が濡れていた。

 

私が母の子宮の中にいた頃、実は私はもう一人いた、という話。
上には二人、育ち盛りの兄弟がいたので、周りは母の久しぶりの妊娠に対して肯定的ではなかったと。両親のためを思った残酷な提案が、さらに両親を傷つけ、悩ませた。最後まで悩んで、父が一言「産もう」と言った。

次のエコー検査で、もう一人の私はこの世に誕生して間もないにも関わらず、周りに気を遣ったかのように心臓が止まっていた。そして人より大きな4000グラムで生まれたのが自分だった。

 

「何も悪いことはしないらしいとよ。いつも見守ってくれているのよ」お腹を痛めてこの世に大きな大きな私を産み落としてくれた人もTシャツをぐっしょり濡らしていた。

 

 

高校3年の夏。志望していた英文科から社会福祉コースに急遽進路を変更したため、担任の先生から呼び出された。周りの友達は、キャビンアテンダントだ、アナウンサーだ、通訳だなどとキラキラとした夢を語る。その時の私は幸せな未来を考えると、私が生まれてきてよかったのだろうか、私の生きる意味は何なのだろうか、と高校生のくせして誰にも言うことのできないダークな一面を隠し持っていた。この世にせっかく生かしてもらったのだから、少しでも人の役に立たなければ。そんな思いで、文系の私が選んだ選択肢は、福祉の道だった。「世界を変えたいんです」この言葉には、異なる意味というより言い訳が含まれていることをここで白状する。それからも人生の節目には、必ず自分自身を責め立て、自分の生きていることを肯定してもらえるような何者かになろうと必死だった。

 

 

私は、9月からイギリスの大学院に進学する。27歳でJICA青年海外協力隊になった時、英語も全く話すことができなかったこの私が、イギリスで、国際開発教育を学ぶのだ。ルワンダの高い就学率が世界に報告される中で、現地でたくさんの子どもたちが学校に行けないという現実をこの目で見た。ちょっとやそっとの子どもの数ではない。ほとんど子どもが、学校をドロップアウトするということが当たり前の世界だった。そして貧困は永遠と連鎖する。教育システムに課題を感じていた私は、アフリカ最高峰のキリマンジャロ山を登っている最中、近くなった空から何かがふっと降りてきた気がした。まだまだ修行しなければ。

 

 

ずっと許されたいと思って生きてきた。ここにいていいんだよ、私が胸をはって生きていいんだよと誰かに思ってもらうために、長い間自分の意志ではない選択をしていたのかもしれない。しかし、気づけば、自分自身が心からやりたいと思える道を自ら選択していて、胸にはプラスのパワーがめらめらとみなぎっている。罪悪感や申し訳なさは一つもない。

何者でもない、私自身を私はようやく受け入れることができた。

 

 

29年かけて、ようやく見つけた。政治家でも、社会活動家でも、ジャーナリストでも、魔法使いでもない。30歳、津田ナツキという人間に私はようやくなることができた。これから幸せへの選択をしても、申し訳なさを感じることはきっとないだろう。何故ならもう一人の私ではなく、私津田ナツキが決めた決断だから。やっとこの社会を生きていくことに自信がついた。

 

 

私の人生は、まだまだ続くかもしれないし、明日死んでいるかもしれない。
どちらにしろ、私は多分笑っているし、周りの大切な人をいつも思っていると思う。
もう一人の私とも、たまには上手くやってやるか〜仕方ないな〜なんて思いながら。

 

 

ABOUT ME
津田ナツキ
世界の貧困をこの目で確かめる、ことを目的に青年海外協力隊としてルワンダで草の根活動中。ろう学校で教師として英語、情操教育を指導しながら、校内カフェレストランの立ち上げ、障がいに優しい街づくりを実践中。